神武寺の歴史

昭和初期の薬師堂
昭和初期の薬師堂

 醫王山来迎院と号する神武寺は、神亀元年(七二四)正月、聖武天皇の命により 行基菩薩が十一面観音・薬師如来・釋迦如来の尊像を彫刻・奉安し、玉体安穏・萬国和平・萬民豊楽の祈祷道場として開山された寺院です。

 天安元年(八五七)になると、慈覚大師により中興され、法相宗から天台宗に改宗されました。

 鎌倉時代の史書 『吾妻鏡』 では、建久三年(一一九二)八月九日、後に三代将軍となる実朝公の御誕生に際し、源頼朝公が夫人政子さまの安産祈願の為、當山を含めた二十七ヶ所の社寺に神馬を奉納された記録や、承元三年 (一二〇九)、実朝公が岩殿寺(坂東第ニ番)と併せて當山へ御参詣された記録など鎌倉幕府より篤い信仰を受けていた往時の様子を見ることが出来ます。

 鎌倉幕府の滅亡や後の動乱期には度々罹災し、小田原北条氏より庇護されて復興もなされましたが、天正十八年(一五九〇)太閤秀吉公の小田原征伐の際にその余波をうけて山内の殆どが焼失し、次第に衰退していきました。

 江戸時代となり、ようやく德川幕府より寺領寄進や保護が加えられましたが、天保五年(一八三四) 再び大火を蒙りました。その後、御歴代や檀信徒の協力により、伽藍の復興や境内の整備が行われ、現在に至ります。

 また、明治二十八年から五回にわたり昭憲皇太后・大正天皇が御登山され、大正八年に貞明皇后の御参拝、昭和三年に昭和天皇・皇太后が三度にわたり植物や菌類研究の為に御来山されるなど、皇室からの行幸が続きました。

 昭和・平成にかけて参道整備や薬師堂改修を行い、當山は逗子鎌倉でも希少となった山岳信仰の面影を残す寺院として、今日まで法灯を伝えています。